Yasumasa Katsuki
1987年生まれ大阪府出身。枚方フットボールクラブから東海大学付属大阪仰星高校に進学。チームとしては高校2年時に選手権出場、3年時にインターハイ出場するも、選手としては日の目を見ず高校を卒業する。高校サッカー部監督からは大学進学を強く薦められるが、それを押し切り単身ブラジルへ渡る。ブラジルから帰国後はプロサッカー選手の夢を追いかけインドネシアに渡る。インドネシアから帰国後は指導者としてコーチングを学ぶために再びブラジルへ。 その後、2013年に都内のスポーツ関連企業に就職し2017年に退職。翌年、日本人に世界基準のサッカーを若い内から経験させたいとの想いから、日本とブラジルを繋ぐサッカー留学コーディネートCEENを立ち上げる。
Kunihiro Suzuki
1955年生まれ千葉県出身。Jリーグ鹿島アントラーズの専属通訳兼コーディネーターとして12年余り勤めあげる。その間、Jリーグ優勝や天皇杯優勝など日本サッカーに於いて主要タイトルを幾つも獲得。2002年からはサッカー日本代表監督ジーコ氏専任通訳として日本代表に入閣。2004年のアジアカップ優勝や2006年ドイツワールドカップ出場など、スタッフとして日本代表チームを支え日本サッカー界に大きく貢献。しかしその後、急性骨髄性白血病と医師から診断される。一時は死を彷徨ったが驚異的なメンタル力を発揮し過酷な闘病生活を経て復帰。現在はサッカー日本代表やジーコ氏から学んだ、「チームが成長し成果をあげる方法」や「組織を崩壊させない為のマネジメント術」、また、白血病から復活を遂げた人間が持つメンタル力などをテーマに自身の経験を幅広く発信している。2021年、サッカー界での功績を讃えられ、日本サッカー協会より「特別功労賞」を受賞。
Shohei Mozu
1938年生まれ大阪府出身。19歳のとき、詩人・英文学者の喜志邦三氏に師事。その後、松竹喜劇文芸部で演出助手として演劇修業。1976年から民間放送局でホームソング、TV、映画のテーマソングなどの制作に関わり、本格的に歌作りを始める。デビュー作は「釜ヶ崎人情」(1967年)。代表作に「花街の母」(1973年レコード大賞ロングセラー賞受賞作品、唄/金田たつえ)、「はぐれコキリコ」(2002年藤田まさと賞受賞作品、唄/成世昌平)がある。2009年には大阪市とサンパウロ市の姉妹都市提携四十周年を迎えるのを記念して、ブラジルサンパウロにある日本文化福祉協会大ホールで記念歌謡イベントが開催され、大阪音楽親善大使を務める民謡歌手の成世昌平さんと共に記念イベントに招かれ、「作詞家もず唱平大阪芸術大学教授特別講演」を開催。現在、東日本復興応援歌「がんばれ援歌」(唄/高橋樺子)を合作(荒木とよひさ、もず唱平、岡千秋、三山敏)し、音楽著作権料の全てを震災・津波被災地に振り分けて支援活動を展開中。音楽プロデューサーとして国際的な音楽祭、コンサートの企画・制作など、長きにわたり大衆音楽発信事業に携わってきた。2002〜2011年、プロデュースを引き受けた若者の音楽コンテンツ創出事業「ミュージシャングランプリOSAKA」からは何人ものミュージシャンが巣立った。「トイレの神様」の植村花菜もその1人。和歌山大の客員教授、大阪芸大の教授として教鞭をとり、主に大衆音楽概論の講義と大衆音楽コンテンツ創出についての演習を担当。堺女子高校での特別授業は文部科学省より「教育改革推進モデル事業」に採択された。2017年には作詞家50周年を記念し、関西各地で記念コンサートを開催。同年に第59回日本レコード大賞功労賞を受賞。