今回はCEENアドバイザーである、鈴木國弘さんとの対談を載せていきます。では簡単に、鈴木 國弘さんの経歴を。
【プロフィール】
1955年 12月25日生まれ 千葉県出身
ブラジル大使館や旅行代理勤務などを経てサッカーの世界へ。1991年、 株式会社鹿島アントラーズFC(鹿島アントラーズ)に就職。以後、鹿島アントラーズではサッカーの神様ジーコ氏はじめ、数々のブラジル人選手やブラジル人監督の通訳を担当。その後2002年、日本代表の通訳とし入閣。ここでもジーコ元日本代表監督ブラジル人スタッフの通訳を担当し、見事、2006年ドイツW杯出場を果たす。その後は、世界柔道リオデジャネイロ大会現地コーディネーターや、一般社団法人日伯少年サッカー育成協会理事長を歴任。現在は、これまで培ってきたサッカー界での経験を活かし、企業、学校、サッカークラブ等に、講演活動を行なっている。2021年、日本サッカー協会100周年 特別功労表彰を受賞。
今回は鈴木さんが日本代表として出場した2006年ドイツW杯についてインタビューをしました。この大会は日本史上最高のメンバーが揃ったと評されながら、グループリーグで1勝も出来ず早々に敗退しました。ドイツW杯について沢山お話ししていただきましたので、数回に分けて寄稿していきます。では本題へ。
− 鈴木さん、今振り返ると、ドイツW杯でのジーコジャパンは失敗だとしたか?
(鈴木)まあ、グループリーグで敗退してしまったから、結果だけを見れば失敗だったかもしれないけど、あの敗戦があったから、その後の代表の進歩があると思うんだよね。合宿地選びや戦術のはっきりした監督を連れてくるとか、ジーコジャパンの経験は間違いなく活かされているよね。まあ俺はジーコのやり方に異論はなかったし、間違いなくいいチームだったと思うよ。メディアではいろいろ言われたし、散々叩かれたけどね。
−W杯みたいな大きな大会になると、チームとしての一体感が大事だと思いますが、その辺りは如何でしたか?
(鈴木)そうだね。一体感はあったよ。でも、W杯直前のマルタ戦での戦いの中で、少し問題は起きた。でもやっぱり何より、オーストラリア戦での逆転負けが全てだったよね。あの敗戦、あの負け方は正直ダメージがデカすぎた。オーストラリア戦は3失点のシーンばかり取り上げられたけど、実際はうちらも得点のチャンスはあったし、そこを決めきれなかったのも響いたよね。そういう意味では、初戦の負けが本当に痛かったし、最後まで響いた感じは確かにあったかな。
−W杯直前のマルタ戦でどんな問題が起きたのですか。
(鈴木)ここで公にしたくないから、講演の場で話すよ。(笑)今、過去を振り返ったYou Tubeとかを選手やサッカーファンが色々語ってるけど、ジーコの隣に常に居たのは俺だからね。まあ、サッカー選手は皆性格も違えば、考え方や取組む姿勢も違うってことだよ。
−ジーコは戦術がない、自由にやらせすぎなど、色々言われていましたよね。W杯で勝つには、本当の意味での自由な(選手が判断してプレーする)サッカーをしないと勝ち上がれないと思いますが、その辺りは如何ですか?
(鈴木)うん、そう思う。ジーコは無策とか、引き出しがないとか、色んな事を言われたけど、あの時、各国そんな画期的な戦術なんてなかったよね。ブラジルもフランスもロナウジーニョやジダン頼みだったし。絶対に勝てる戦術があれば教えて欲しいと思っていたよ。プレッシャーの掛かった試合で、大歓声で監督の声が届かない時、選手が自ら判断したプレーをしないといけないと思うんだよね。少なくても、試合中に監督の方をチラチラ見てくる様ではいけないよね。
−2002年、日韓W杯は秋田選手や中山選手など、ベテランの力が大きかったと言われていましたが、その辺りは振り返ってみてどう感じますか?
(鈴木)日韓(2002W杯)は帯同していないからわからないけど、確かにベテランを入れていたら結果が変わっていたかもしれないね。ベテラン選手がいい雰囲気を作り出してくれてたかもしれない。でも、そんなもんは結果論だよ。あの時(ドイツW杯)も決して平均年齢が低かったわけではないし、経験値の高い選手もいたから。でも、まこ(田中誠選手)が離脱したのは個人的には痛かった。彼は口数こそ少ないけど、すごく人間性も良くて、皆んなからも頼りにされていて、とてもいいキャラクターだったから。ジーコも彼のパーソナルティはすごく評価していたんだよ。もちろん選手としての能力も素晴らしかったし。
次回に続く